よしだの自習室

「バカ騒ぎ」から「コンプラ」へ―バラエティの昔と現在

バラエティ番組のサムネイル

昭和から平成初期にかけてのバラエティ番組には、いま振り返るとかなり際どいシーンが多く存在していた。芸人たちがモノを壊したり、勝手に落書きをしたりといった行為が大きな笑いをとっていたのだ。当時はそれを観て「おもしろい」と感じた視聴者も少なくなかった。一方、現代のバラエティやSNSを取り巻く環境では、同じような演出が「やりすぎ」「不快」「コンプライアンス的にアウト」と批判されることが多い。時代が進むにつれて、笑いの許容範囲がどう変化したのかを考えてみたい。

テレビが持っていた「特権空間」

昔のテレビ番組は、視聴者にとって絶対的なエンターテインメントの場であり、そこでは芸人が何をしても「テレビだから大丈夫」という空気があった。「芸人は破天荒でこそ芸人」という価値観が根強く、視聴者も「これは芸の一環だ」という暗黙の了解をもって笑っていたのだ。共演者の私物を破壊したり、スタッフやタレントをイジるような行為であっても、多くの場合は「笑える悪ふざけ」として受け入れられた背景がある。これは、視聴者がテレビと現実を切り離して楽しんでいたからこそ成立した構図ともいえる。

SNS時代がもたらした常識の書き換え

しかし現代では、SNSを通じて視聴者が番組内容へダイレクトに意見を発信する時代である。また、その声がスポンサーや制作サイドへ瞬時に届く。その結果、「テレビの中だから許される」という昔ながらの空気が通用しなくなり、番組側もリスクを避ける方向に進むようになった。例えば「器物損壊まがい」「被害者がかわいそう」といった声が一気に拡散されることで、番組が炎上し、謝罪や放送休止といった事態に発展するケースも珍しくない。過去にはギリギリの笑いが当たり前だった分、その落差を感じて「昔はもっと自由だった」と懐かしむ人も多いだろう。

モラルと共感が求められる笑い

時代の流れとして、コンプライアンス意識や多様性への配慮が浸透し、相手を傷つけたり迷惑をかけたりする笑いへの抵抗感は確実に高まっている。若い世代の間では特に、他者を攻撃したり物を破壊したりする行為よりも、SNS文化に根ざした“共感”や“言葉遊び”のほうがウケがいいのだ。YouTubeに代表されるネット配信の世界でも、巧みなトークや身近なあるあるネタが高い評価を得やすい。むろん、過激なドッキリ系の動画も存在するが、行き過ぎればすぐに「やりすぎ」「犯罪では?」と批判されてチャンネルごと吹き飛ぶリスクを抱えている。

ノスタルジーと現代のバランス

現代の若い世代にとっては、SNSやYouTubeを通じた“身近で共感できる笑い”が当たり前になっており、かつてのバラエティ番組のような過激で破天荒な演出が「なぜ笑えるのか理解できない」と感じられることも少なくない。笑いの前提となる価値観や文化的背景が大きく異なるため、昔のバラエティの魅力そのものが伝わりにくくなっている。

かつては「危うい」からこそ笑えた側面があり、当時を知る世代にとっては「一切のタブーを気にしないバカ騒ぎ」に対する郷愁があるだろう。しかし、そのスタイルをいま再現しても批判は免れない。法的問題や被害者意識が無視できない現代では、あの頃の笑いが生々しい形で復活するのはほぼ不可能なのだ。番組制作者もスポンサーも、常に視聴者の目とSNSの反応を気にせざるを得ない時代であり、「昔のように撮れ高を狙ってひたすら破壊活動をする」といった演出は自滅行為に近い。

おわりに

テレビと現実を隔てていた壁は、スマホやSNSの普及でほぼ消滅した。誰もが気軽に動画を撮影し配信できる今、かつての「テレビだからこそ許される」行為は、すべて“現実”と同じ土俵で評価されてしまう。ある意味、かつての勢いある「破天荒」を楽しめたのは、テレビが特別な夢の舞台だったからこそだろう。過去の記憶を懐かしみつつも、今の社会が持つモラルとルールに合わせて笑いの形が変わっていくのは、当然の流れといえる。笑いの質や許容範囲は時代によって常に変化するものであり、それこそが大衆文化の面白さではないだろうか。

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