ゲーム (ここでは勝敗を伴う対戦ゲームを指す) は娯楽であり、楽しみの手段である。また、そこに勝敗がある以上、勝つことに喜びを見出すのもごく自然な心理といえる。とりわけ競技性の高いゲームではプレイヤーの実力や戦略が結果に直結するため、「勝ちたい」という欲求が強くなるのは当然の流れだ。
一方で、仲間内でのゲーム、いわゆるカジュアルプレイにおいては、ゲームの目的は必ずしも勝利に限られない。むしろ「共に時間を過ごす」「一緒に盛り上がる」「互いのリアクションを楽しむ」といった側面が重要であり、それがゲームの魅力を大きく構成している。したがって、勝利への執着が過剰になると、こうした「共有の楽しみ」を壊す要因になり得る。
ベクトルのズレが生む摩擦
「勝ちたい」というベクトルと「楽しみたい」「時間を共有したい」というベクトルは、必ずしも対立するものではない。むしろ、適切に両立できれば、緊張感と和やかさが絶妙に融合した、理想的なプレイ体験を生む。
問題は、このバランスが崩れたときに起こる。たとえば、誰かが勝利に極端に固執し始めると、ゲームの雰囲気は一気に変わる。勝てばいいという姿勢が目立つようになり、ミスや敗北への怒り、他者への苛立ち、あるいは再戦の強要などが発生する。こうなると、ゲームが本来提供すべき「楽しさ」は消え失せ、場の空気は冷め、他のプレイヤーは気を使わざるを得なくなる。
「負けて不機嫌」になる心理
人が負けて不機嫌になるのは、自尊心が傷つくからである。自分は上手くやれるはずだったのに、それが叶わなかった――このギャップに苛立ち、羞恥や悔しさを感じる。それを自覚的にコントロールできれば良いが、抑制が効かないと周囲に悪影響を及ぼす。「悔しい」と感じること自体は悪ではない。問題は、それをどう処理するかである。
また、再戦を執拗に求める人の心理も同様だ。「今のは実力ではない」「真価を見せられていない」という感情が、再挑戦への衝動を生む。これが軽い冗談やノリの範囲であれば場を盛り上げるが、相手の気持ちや時間を顧みない再戦要求になると、関係にひびを入れかねない。
相手へのリスペクトが支えるスポーツマンシップ
ゲームにおける理想的な姿勢とは、自分が真剣にプレイすると同時に、相手の技量や判断を尊重することである。相手の巧みなプレイや冷静な判断を見て、「やられたな」「すごいな」と心から思えるなら、それは成熟したプレイヤーである証だ。
このようなリスペクトがあれば、たとえ自分が負けたとしても、それを素直に受け入れ、相手を称えることができる。勝敗の結果よりも、質の高い戦いができたことに価値を見出せるのである。逆に、相手を軽視したり、勝敗だけにこだわる人間は、敗北を素直に受け入れられず、不機嫌になったり、勝った相手を正当に評価できなかったりする。
リスペクトは勝者の傲慢を戒め、敗者の心を健やかに保つ。共に戦った仲間への敬意は、ゲームの余韻を深め、次の対戦をよりよいものにしていく。
プレイヤーシップ
「勝利への情熱」と「場を楽しむ余裕」をバランスよく抱く姿勢、これがプレイヤーシップである。仲間とゲームをする際に大切なのは、勝っても負けても楽しいと思える心持ちだ。勝敗へのこだわりをほどよく緩め、ゲームそのものや共有した時間に価値を置くことで、その場の健全な空気が保たれる。
真剣勝負を好む者同士であれば、全力で腕を競い合う時間もまた魅力的だ。ただし、そのモードを持ち出す場面を誤れば、周囲を疲弊させてしまう。プレイヤーシップは、場面ごとに競争心と寛容さのバランスを測る感性でもある。
終わりに
ゲームとは、ルールの中で自由を楽しむ遊びであり、自己と他者との交流の場でもある。その目的が「勝つこと」だけに偏ってしまえば、かえってゲームの持つ豊かさを狭めてしまう。「勝ちたい気持ち」を完全に否定する必要はない。ただ、それと同時に、「誰と」「どんなふうに」遊ぶのかという視点も忘れてはならない。そして、相手への敬意を持ち続けることが、すべてのプレイヤーにとっての鍵となる。